ドナルド・キーンと司馬遼太郎の対談

「日本人と日本文化」対談 ドナルド・キーン司馬遼太郎

今読んでいる本。先日アマゾンプライムにお試しで加入したため配送料無料ということで一気に7冊ほど購入。そのうち、まずはこの本から読み進めている。日本人の戦争観であったり空海一休宗純の話、いわゆる”日本文化”が出来上がった過程など、様々なエピソードとともに述べられている。まだ、文章で説明できるほど読み込んではいないのでここには書けないが、いわゆる日本史で勉強してきたものの背景にあるエピソード、例えばフランシスコザビエルがキリスト教の宣教師として日本へやってきたとき、(今の我々のイメージだとキリスト教は弾圧されていたイメージが大きいが)新しい仏教の宗派がきたくらいにしか受け止めなかった、逆に宣教師の方が拍子抜けした、というエピソードはなかなか面白い。

また別なエピソードでは、火縄銃に関して、織田信長がこれを戦争で用いたのは有名だが、徳川家の時代には使われなくなった、ちょうど戦国時代がおわってそれまでの秩序が完全に覆され、新しいものを積極的に取り入れる風潮にあった時期にヨーロッパ人がちょうど日本に来たから、受け入れられたんじゃないか、もし違う時代(江戸時代のように確固とした支配体制が整っている時代)に日本に来ていたとしても火縄銃はアテにされなかったんじゃないか。

こういう風に日本史をとらえたことがなかった(ただの暗記の対象でしかなかった)のでとても新鮮だった。ただこれらが今の自分にどう役立つかは依然不明である。

日本文化について 自分のブログの立ち位置

先日、一個人として何か価値や意味のあるものを作り出したい、という思いでブログを再開したことを記事に書いた。

その気持ちは今も変わらず、また僕以外の様々なブロガーやその他のあらゆるクリエイティブなことに関わっている人も同じ気持ちだろう。

ただ、ここ最近で、何か価値のあるものを作り出すには今までどのような価値のあるものが作られてきたかをまず学ぶ必要があると考えた。

これを学ぶことこそ、日本の文化を学ぶことに他ならない。日本文化というと、国際的視野を意識した、能や狂言、盆栽などのイメージがあるが、このブログを書くことでさえ、一つの文化なのである。

こう書くと僕はブログの文化を学ぶのかと思われるかもしれないが、そうではなくもっと大きなくくりで日本の文化を学びたいのである。それらを単に学ぶのではなく、「このような文脈のなかで2020年を生きている自分が、一日本人として日本文化をどう担うか、どのように価値あるものを作っていくか」、という視点のもと学んでいきたい。そう考えるとこのブログはある意味では日本文化を学ぶ上での備忘録的な立ち位置になるだろう。もちろん、学ぶのと同時並行かしばらく学んでから価値のある、意味のある記事も書いていくつもりである。

やるべきことを後回しにしているとき

タイトルにある通りやるべきことを後回しにしているとき、心のどこかでもやってしますよね。やるべきなのは頭ではわかっているけど、如何せんやる気力がわかない。

ただ個人的な経験では、やるべきことをやった後の達成感はかなりあると思っています。達成感もあるし、なにより、やるべきことを結局やらなかった時と比べて満足度が全然違う。

これも経験上わかっているのになぜそれでもやる気が出ないのか。ただいまやるべきことを後回しにしている際中なので私にはわかりません。どうしたらやる気がでるのか。

 

今日は午前中にパワーポイントをかなりみっちり作成したのでブログの文章を書くのですら面倒になってきています。でも毎日やることに意味がある!無意味かもしれませんがそんな気持ちで今書いています。

 

アウトプットの必要性

最近、調べ事をパワーポイントで作成してZoomで発表したのですが、その調べ事に関する知識がものすごい勢いで定着した記憶があります。

やはり他人に言葉で伝えなくてはいけませんから、そのためにも自分がまずしっかりと理解している必要がありますし、それからうまく言語化して人に伝える、こういうプロセスによって、知識を単なる暗記としてではなく生きた知識として身に着けていくことになるのだろうと思います。

そこで、自分で調べてみたいこと(僕の場合は今回は音楽における和声法でした)もせっかくなので人に伝えることを前提においてパワーポイントを作成することにしました。というのも以前友人が購入した2冊の本が僕も興味があったのでそのうちの一つ(和声法の本)を読んでまとめよう、というわけです。友人ももう1冊の方を読んできてお互い教えあうつもりです。

いくら自分で調べたいとは思っても一人ではやはり面倒だと思ってしまいますし、友人と教えあうことでモチベーションの維持にもつながるかな、と考えています。

 

僕がブログを書いているのも、僕自身の考えを文章におこす、そのプロセスにも価値があると思っています。今までなんとなくでしか考えてこなかったことをいざ文章におこしてみることで、それが生きた自分の考えとなるからです。もちろん、前回の「生きた証」にも書いたように何かしら価値のあるものを世の中に残したい、という考えが根底にはありますが。

自分の生きた証

毎日自粛生活をして思うこと。

私は今までの生活でインプットばかり行ってきたように思う。読書しかり、映画鑑賞、音楽の勉強など。しかしそれを実際に自分の血となり肉となってアウトプットに活かされたことはほとんどないように思う。

思うに、自分が社会から疎外されていると感じるのは、自分がこの生まれてきた世界に何一つ爪痕を残せていないからなのではないだろうか。何かしら価値のあるものを生み出したい、それが世のため人のためとなりしっかりと他人から評価されたい、そのような欲求が自分の根底にあるのだと思う。

ブログを再開したのも自分のインプットしてきたものを社会に発信したいから、それが自分の爪痕の一部になるのでは、と思って再開した次第である。

アフィリエイトについて

久々に更新したらアクセス数2もきててびっくり(笑)

今日はプライベート・ライアンをみました。実にいい映画だった。

話は変わりますが、映画や本の解説しているサイトで、そのままhuluやNetflixとかの配信サイトやアマゾンなどの購入サイトのリンク貼りつけている人いますよね。こういうのリンクからそのサイトに飛んで実際に購入されるとこのブログ主にお金が入るっていうアフィリエイトっていう仕組みらしいです。

 

で、率直な疑問なのですが、あれやってる人の中に、例えば映画について自分なりの考察を書くことが好きでそのついでにアフィリエイトをやり始めた人ってどれくらいの割合いるんですかね。大体中身の文章を見ればある程度わかるとは思いますが...

アフィリエイトでお金を稼ぎたい、という目的から映画や本の考察を始めた人、個人的にはその作品を侮辱しているような気がしてあまりいい気はしないのです。お金を得る手段としてその作品が利用されてしまうこと、それは作品をつくった人たちへの冒涜のような気がするのです。

ただ、考察の中身がよければ、その作者が作品を通して伝えたい趣旨をくみとれるなら全然かまいませんが、大体のアフィリエイトユーザーは文章がとても浅い。そういう浅い人間が作品を知ったような口であれこれ考察した挙句、アフィリエイトで金儲けなど嫌悪感しか抱きません。

そうせざるを得ない状況というのもありますから一概には言えないかもしれませんが、そういう考え方のもとアフィリエイトをやっている人は、自分とは相いれないような感じがします。

 

P.S 自分もそのうちアフィリエイトやり始めるかもしれないのでそうなったときにも戒めとしてここに書いておきます

皆簡単にうそをつくーコロナを通してー

久々の更新です。今ふと思ったことを書こうと思います。

うそをつく、というのは身の回りの生活面で、という意味ではなくて、ニュースなどの社会的な情報について、という意味です。

というのもテレビはもちろんのこと、一個人が発する情報(このようなブログも含め)は、様々な事物は各々の「フィルター」を通して意味付けされ、そのフィルターを通して何かしら意味づけをされた情報が発信される。自分や他人の意見を載せているニュースの場合はそれの真偽はさておき、何かしらこういう方向でまとめたい、という発信者の意志のもと情報が取捨選択されるし、単に事象を説明するニュースであっても、その事象の取捨選択もその情報の発信者に任される。

これって今に始まったことなのだろうか、と考えてみたがそうではなく、むしろどの時代にも必ず存在する問題だとおもう。しかし昔と今とで違うのは、現代ではその平気で嘘をつくことが、ネット環境の整備に伴って浮き彫りになったのだと思う。(こんな一市民でさえ、情報発信をできる時代なのである)

原稿用紙一枚分くらいにまでなってしまったので今日はここまでにしよう。