音楽における旋律の歌い方 備忘録

こんばんは。

今回お話するのは、音楽(特にクラシック音楽)における、旋律の歌い方についてです。これは自分のために、戒めとして常に意識すること、そしてアウトプットすることでより生きた知識として身に着けることを目的に書いていますが、他の方にも参考になればと思って書いております。

 

「旋律の歌い方」、これはクラシック音楽に限らず、音楽全般において永遠のテーマであります。そしてこれは数学の問題とは違って、答えが一つではありません。ざっくり言ってしまえば、何をしても正解、というわけです。

となると「自分の歌いたいように歌えば良い」、という結論になりそうですがいかがでしょう。これは間違ってはいませんが僕の経験から言わせていただくと、あまりおすすめできません。

というのも「歌いたいように歌」おうとすると、例えば以下のような現象がおきます。

・体に力が入る

・音程も上ずる

・自分のことしか考えられなくて、周りを意識する余裕がなくなり、いつのまにか他の人とずれている

これらは結果的には「頑張って歌っているようだけどそこまで上手くない」という印象になってしまいます。じゃあ「歌いたように歌」ってはいけないのか。そんなことはありません。ただそれをするうえで一つ意識してほしいことがあるのです。

 

それは、自分が「歌いたいように歌う」ところを想像してそれよりも少し下の方を意識して歌う、ということ。わかりずらいですね。

そもそも旋律というものはメロディですからそれを構成する音は高いものが多いですよね。旋律が存在する空間は高いところにあるのは楽譜(ピアノ譜)を見ればすぐにわかりますが、「歌いたいように歌う」というのは先ほどの僕の経験のところで話した、音が上ずることからもわかるように、本来旋律(歌)があるべき空間よりもよりいっそう上の方にあります。

そのため、よりいっそう高い空間で歌ってしまうのではなく、そこよりも少し下の空間で歌う、つまり本来旋律があるべき空間で歌うということです。これは理論的に言えば、和声を意識するということだと思います。

そもそも音楽の根本には和声というものがあって、メロディに限らず、合唱でいうとテノールやバスなども、一個一個の音符は、その和声の中から選ばれているわけです(バンドでいうとエレキベースもギターも)。

「歌いたいように歌う」と本来よりもより高い空間で歌ってしまうという話でしたが、それは結局その曲を支配している和声から旋律が飛び出して一人歩きしてしまい、全体のバランスが崩れてしまう、その結果下手に聞こえてしまう、ということだと思います。

要するに「歌いたいように歌う」空間よりも下の方で歌う、というのは「和声を、音楽の根本を意識しながら(メロディの立ち位置をわきまえながら)歌う」、という風に言い換えられると思います。こういう風に書くと、理論的で難しい印象を与えてしまいますが、ただ、下の方で歌う意識をもつだけで圧倒的に変わるので安心していただいて大丈夫だと思います。僕も和声について詳しくはほとんど知りません(笑)

非常に読みにくい文章になってしまいましたが、旋律を歌うときに以上のことを意識してみると、ちょっと今までとは変わった景色がみえるかもしれません。曲の全体を見渡すような視野が開けてくるというか。俯瞰できるというか。

 

長文失礼いたしました。

note 面白い

最近流行っているnote。サイトの色合いがきれいなのでこちらと同時並行で初めてみました。まだ試験的なので、どのような内容をどちらのブログで書くか全然決めていないですが、昨日の記事みたいに行動までのハードルを下げたので、とりあえずやってみよう、という感じです(笑)

はてなブログとの違いとしては、Instagramのように記事に好きなタグをつけることができること、そしてフォロー、フォロワーという形で形式がちょっとTwitterに近い感覚がします。初心者でも取り組みやすいのでぜひ。

 

いざnoteを始めようと思ったときに悩むのは、何と言っても名前!名前を決めるのに30分ほどかかりました。ただ思いついた名前で決めるのは、軽薄な感じがして嫌だったので、僕が好きな作家たちの名前からとって怒島由吉という名前にしてみました。

好きな作品や興味があるもの、日頃考えていること(特に文化について)、あとこの名前の由来なども書かれているので興味ある方はぜひ!

 

https://note.com/_yukisky

 

話は変わりますが、最近思うこととしては、Beethovenのヴァイオリン協奏曲が本当にいい曲っていうこと。協奏曲というとヴァイオリンの独奏のような気がしますがこの曲はもはやオーケストラが主役といってもいいくらい。ヴァイオリンは独奏ではあるものの、あくまでオーケストラの上で一緒に弾いている、そのような曲になっています。

リンクを貼っておくのでぜひ聞いてみてください。

https://www.youtube.com/watch?v=vfX_6Z5zzEo&t=362s

 

やる気がおきない方へ 行動へのハードル上げてませんか

あまり気の乗らないこと、例えば勉強をしなくちゃいけないとき、どうしても「ちゃんと勉強しなきゃ」という強迫概念じみたものに縛られて勝手にハードルを上げて、後回しににしてしまうことを最近よくする。というかずっと今までそんなような生き方だったと思う。

というのも、僕は小さいころからヴァイオリンを習っておりコンクールにも何回かでたのだが、やはりコンクールとなるとしっかりとした演奏をしなくちゃいけない。そのためには毎日実のある練習を欠かさずしなくちゃいけない。これがいつの間にかヴァイオリンに限らず自分のライフスタイルになってしまった。(後から考えるとこれがプロ意識の芽生えかもしれない)勉強するにもしっかりと勉強しなきゃ、という考えに縛られてしまい勉強が億劫に感じられ、受験勉強も後回しにしてきた。その結果、焦り始めてそろそろやんなくちゃ、ということで直前期に本腰を入れて勉強をする。今までの僕のスタイルは、焦りを覚えるまでやらず直前期に追い込む型だったのだ。

しかしすべてのことに対してそのようなスタイルだと非常に生きずらい。なにをするにも億劫になってしまうし、やる気が出てこなくなってしまう。

なので、最近は、たとえその行いの結果実りがあまりなくてもとりあえずちょっとでもいいからやってみることにした。要するに行動するまでのハードルを下げたのだ。勉強で言うと、勉強したからには全部覚えないといけない、という考え方ではなく、とりあえず問題に目を通して、細かいところはおいておいて大まかなところをまずは勉強しよう、こういうスタイルに変わってきた。

 

ただこのスタイルには、たとえなにか行動できたとしてもその質が以前と比べると下がってしまう、という欠点もある。というよりハードルを下げるということは常にこの欠点を持ちうる。

例えば僕にとってのヴァイオリンのようにプロ意識があるもの(自分は音大には行っていないが、演奏するからには一人前の演奏をしなくちゃいけないと常に思っている。)に対して同じスタイルを適応してしまうと、その演奏の質が下がりかねない。ヴァイオリンを毎日練習することは普通の人からしたら素晴らしいことだがプロの世界では当たり前、そんなことでほめられても一流にはなれないわけで、やはり毎日練習をしたうえで、より良い演奏を目指さなくてはいけない。ただそれを目指そうと思えば思うほど、その大変さに億劫になってしまい、練習のやる気が下がってしまうし、練習に身が入らなくなってしまう。先のと対比させて言うと、行動までのハードル上げである。

なのでこのようなプロ意識を持っている分野に関しては、今いったスタイルとプロ意識のバランスをうまくとらなくちゃいけない。

アメリカ音楽史を勉強するにあたって 音楽を聴く姿勢

ジャズ、ゴスペル、ブルース、R&B、folk、ソウル、ヒップホップ

聞いたことあるけどじゃあ実際に何が違うのか全く分からない。だからジャズはこういうもの、ブルースはこういうもの、って正解を知りたくなってしまうけど、実際にこれらの音楽が流行していた当時には、こんな名前は付けられていなかったはず。だったらブルースはこの曲、ソウルはこの曲っていうくくりでわけちゃうのはなんだか本質を見れていなような気がして、まず曲をたくさんきいてみて、それから「これはちょっとあれと似てるからブルースの影響受けてるのかな」くらいの感想でいいや、と思うようになりました。

要するに、変に評論家のつけた言葉にとらわれて聞き始めるとバイアスがかかっちゃうし、別に博識になる必要なんてないわけだから、自分の思うように聞いて思うように感じることがまず先決かなっていうことです。

僕のまわりに、変に評論ばっか読んで博識ぶるけどその曲に対する感想ももはや評論じみている人がいるのでそうならないように戒めの意味で書きました。

読みやすい文章 福沢諭吉、ドストエフスキーを例に

読みやすい本、ということだがこの記事を書くきっかけになったのは読みづらい本に出会ったからだ。今読んでいる、アメリ音楽史に関する本がまさに読みづらくて困る。一例をあげる。

ミンストレル・ショウにみられるこうした<擬装>の重層性こそがその後のアメリカ音楽文化におけるアイデンティティの在り方を決定づける。~(それは)幾重にも擬装され、仮構された虚構の主体である。」

文脈から切り抜いてしまったので余計にわかりづらいかもしれないが、普通に読んでても読みづらい。というか文化史の本なんて一般人も興味をもって読むのだから(というよりこの本は一般人向け)なぜそれを意識せず読みづらい文章を書くのか。もっと言うと、こういう類の文章書く人、ただ自分の言葉の巧みさに自分で酔いしれてるオナニープレイにしか見えん。

その点、福沢諭吉の本は非常に読みやすい。「学問のすすめ」を真っ先に思い浮かべるけど、あれは絶対読みやすく意識して書かれてる。なんて言ったって若者にむけた啓蒙書だからね。それ以外の普通の本、例えば「文明論の概略」も実は同じくらい読みやすい。

その理由としては、言いたいことが回りくどいことせず、ズバリと書かれてる。それに加えて、たとえ話がたくさんある。そのたとえ話もわかりづらいものはなく、身の回りの話でわかりやすくたとえられているので読んでて爽快で面白い。あと、文章のテンポが良いというか、読んでてあまり飽きないところも、魅力の一つ。

小説においては、そこまでたくさん読んだわけではないけど、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は簡潔でわかりやすかった。そもそも内容が膨大なのはちょっと置いておいて、文章については言いたいことがとてもわかりやすい。文章を読んだときにその内容がすっと頭の中に入ってくる感じ。それに比べて三島由紀夫の本は回りくどい表現が多くてちょっと読みづらい。(それとは関係なく普通に三島由紀夫の作品は好きです)

 

話が脱線してしまったけど、要するに自分は福沢諭吉のような簡潔で明瞭な文章を書けるようになりたい。

 

やるべきことを後回しにしているとき(あとべき) その2

先ほどの記事に続いて。

自分の中では

何か価値のあるものを生み出す=やるべきこと 

のような立ち位置になってきているけれども、そうなってしまうと、タイトルにもあるようにやるべきことを後回しにしてしまう現象が出てくる。だから、とりあえず読書で勉強してからにしよう、という考え方に行きつくのではないだろうか。

この現象、毎回書くの疲れるので「あとべき」って勝手に名付ける(笑)

こないだ「あとべき」について記事を書いた後、いろいろ考えたのだが、そういう状態になってしまうとき、おそらく「べき事」のハードルを自分で勝手に上げてしまっているんじゃないかと思った。要するに、今回の話で言えば、しっかりとした理念の基価値のあるものを創りださなきゃ、という考えに縛られてしまって結局身動きとれない、という状況なんじゃないかと反省している。

そんなことは最初からは無理難題であるわけだから、最初は

なにか価値のあるものを生み出す、というよりも自分の思うようなものを創ってみる、それを後から反省してみる、その反省をもとにまた創作してみる

という試行錯誤を前提に考えれば、別にそんなハードルも上がんないんじゃないかな。

皆さんはどうお考えですか?

読書と生きた証

「価値のあるものを生み出す(生きた証を残す)、そのためにも今までの日本や世界の文化がどのように成り立ってきたか知る必要がある」

ここ最近、こういう風に考えてきたわけだけれでも、大きなことを言っているようで実際はブログを書くこと以外になにもしていないように思える。

勉強、ということで毎日たくさん読書をしているが、それが、ただ、何か意味のあるものを生み出す作業から避けてるようにも思える。なぜならその作業は非常に疲れるし大変だから。

たしかに読書に実用性を求めるのは間違っている。読書はそもそもそんなようなものではないし、色々な価値観や考え方に触れることで人間性を豊かにするものであると考えているので、別に読書をやめるわけではないしブログだって今のところやめるつもりはない。ただ、ブログなんて一日にせいぜい数分くらいしか書かないわけで、それだけで何か価値のあるものを生み出していると言えるかあまりわからない。もっと価値のあるものをつくることに没頭したい、例えば読書から得た智をもとに小説を作ってみたり(それをこのブログに載せて結果的にブログを書くことにつながるかもしれない)、音楽の勉強をして自分で作曲して、それを公開したり。

僕が思いつくのはそういう文化的なものだが、それに限らなくても、例えばベンチャー企業などでは何かしらの理念をもとに会社を立ち上げ資金を集め、価値のあるものを生み出すわけだから、そういう社会の役に立つものだって何か自分ができることはあるんじゃないだろうか、とも考えたりする。

結局、読書も大事だけれど、そういう日本文化の勉強なんて際限がないわけだから、むしろ読書と同時並行で何かを創り出していく方がいいんじゃないかと思う。

とは思いつつ、これを文章に起こしてブログに書くことも何かしら価値のあることだと思っているのでちょっといい気持ちだったりもする(笑)